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趣味の在り方と豊かさについて

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こんにちは。研究室に配属されてから大学内で定住できる場所ができてハッピーな気持ちのるくみるです。ひとつだけ懸念点があるとしたら、家から大学まで片道2時間弱かかるところかな。

自分の机やパソコンがある環境っていいですね。別に家にいてもやることは変わりませんが、大学のほうが人と話せるしトレーニング室もあるし、ちょっとだけお得感があります。

さて、今回は久しぶりにポエマー回になります。ぜひ私の思考の片隅を覗いていってください。

どんな趣味があるだろう?

最近になってから、よく思うことがあります。それは、

受動的な娯楽が楽しめなくなってきた

ということです。娯楽にもいろいろな種類がありますが、ここで言う「受動的」とは「自分自身が活動をしなくても体験が得られるエンタメ」のことを指します。具体的には、アニメ、映画、ドラマ、漫画、小説など。要するに「観るだけ」「読むだけ」「聞くだけ」の娯楽ということです。

私は昔から、自分自身が何か能動的に取り組める娯楽が好きでした。それこそゲームがそのひとつだと思います。小学生になる前から Wii や DS など様々なゲームに触れてきて、当時は友達の中でもゲームが上手なほうだったので地域で名を轟かせていたわけですが……。ただただ無邪気に何時間も何時間もゲームに没頭していた時間は、今になってその価値に気付かされます。

他には、音楽も私の趣味になると思います。中学時代に iPhone の GarageBand を使って駅の発車メロディを耳コピしたのが始まりでした。そこから中3になって Fortnite のクリエイティブモードで音ブロックを使った制作を始めたり、高校からはベースを始めてバンドを組んでみたり、今はベースだけでなくギターやピアノも練習したりしています。

最近では、このホームページのような Web 開発に取り組んだり、マイコンを使った電子工作やプログラミングに挑戦したり、今やっているように執筆活動に励んだりしています。不思議なことに、歳を取るにつれてどんどん興味がクリエイティブ側に寄っていっている感覚があり、ここ1年くらいはもはやゲームすらほとんど楽しめない状態が続いています。

選択とフィードバック

「受動的な娯楽」と「能動的な娯楽」ではいったい何が違うのか。それは、

「自分の手で対象に変化を及ぼせるかどうか」

ということだと思います。そして、自分の力で何らかの変化を起こした、自分が望んだ方向へと進んだ、というフィードバック成果)が得られるかどうかの違いだと考えています。

例えばゲームの例で考えると、我々は常に何らかの「選択」によってゲーム内のキャラクターに干渉することができます。それはストーリーを変化させるかもしれないし、勝負の勝敗を変化させるかもしれない。そしてそれらの選択の先には必ずゴールがあり、自分の力でステージをクリアした、自分の力で物事を前に進めた、というフィードバックが返ってきます。

音楽や芸術、プログラミングなどの創作活動はさらに選択の連続でしょう。自分が何かを決めなければまず物事が前に進むことはないし、そうやって試行錯誤しながら進めた先で、かつて自分が想像していたものを形にできたときには大きな達成感が得られます。

そのような「対象に対する働きかけ」と「対象からのフィードバック」の繰り返しが能動的な娯楽の楽しさを作っていると思うのです。

これがアニメやドラマなら、いくら考えたところでストーリーや結末は書かれた脚本通りにしか進みません。いわゆる「考察」も当たるか外れるかの2択ですし、たとえ当たったとしてもストーリーが自分の力で変わったわけではありません。我々は常に傍観者の視点でいるほかないのです。

生産と消費

能動的な娯楽はたいていクリエイティブな活動です。これを「生産的な娯楽」と位置付けると、受動的な娯楽は「消費的な娯楽」と見ることができます。

ドラマを見るとき、私たちは決まった話数のお話を第1話から順番に「消化」していきます。小説を読むときも、我々は1ページ目から順番に「消化」していきます。そして、これらには最終話や最後のページといった明確な終わりが存在し、終わってしまえば基本的にはそれっきりでまた別のドラマや小説を探しに行きます。

そのような消費的な娯楽の特徴として、特別な技能を必要としないことが挙げられるでしょう。ドラマ「半沢直樹」は誰が見たとしても面白いと感じることができるし、誰でも映画「最強のふたり」を見て感動することができます。誰に対しても平等に機会が与えられているという点は、生産的な娯楽にはない魅力です。

一方で、生産的な娯楽は楽しむために勉強や練習が必要で、ときには生まれながらの才能が求められます。作曲するにも才能が必要で、上手く楽器を弾くためには長期間の練習が不可欠です。プログラミングをするにも必ず勉強の過程があるし、こういった生産的な娯楽ではゼロから誰でも同じだけの体験ができるとは限りません。

しかし、長く勉強や練習に取り組んでいると、いつか生産的な娯楽は「スキル」に変化します。「楽器が弾ける」「3DCG 作品を作れる」というと、「漫画をたくさん読んだ」「たくさんのゲームをクリアした」というのに比べて、何だか高尚で素晴らしいことのように聞こえます。

つまり、生産的な娯楽は「人に評価されうる価値を身につける」活動でもあると思うのです。

評価されない価値の創造

しかし、私は「生産的な娯楽は人に評価されうる」という点にただならぬ不安を感じるのです。もし関係が逆転してしまったらどうなるでしょうか?

すなわち、単純に好きだからやっていた趣味が、

人に評価されるための趣味

へと変化してしまったとしたら、それは本当に趣味と言えるのでしょうか?

大学4年生にもなると周囲の友人はみな就活を終える時期になってきますが、就活中のみんなの様子を見ていると、今まで自分の活動や経験をなんとか「人に伝わる価値」に昇華させようと頑張っていたように思えます。ただ好きでやっていたことなのに、なんとかそれを人に評価されるための道具に変えようとしているわけです。これは何だか寂しいことのような気がします。

また、人に評価してもらうことを前提として何かを始めるケースもあるでしょう。例えば、就活で強くなるためにプログラミングを始める、モテるためにギターの練習を始める、など。自分自身を他人に売り込むために、自分のスキルを磨き、他人から見えやすい価値を身につけようと努力するのです。

しかし、趣味は他者の評価から隔離されたところにあるべきだと私は考えます。ひとたび他人に評価されることが目的になってしまった活動は、もはや趣味とは呼べない、仕事と同じようなものなのではないでしょうか?

よく「豊かさは、無駄に使った時間の多さである」と言われます。これは言い換えると「本当の意味で自分のために使った時間の多さ」のことだと思います。

趣味が「他者に評価されるための活動」に成り下がった瞬間、その趣味に費やす時間はすべて他人のために使う時間に変化してしまいます。そうではなく、本当に誰のためにもならない無意味に見える活動こそが豊かさを生むのだ、ということを言っているのだと私は思うのです。

能動的な娯楽は、注意しなければ我々から豊かさを奪っていく危険性を孕んでいます。他者に評価されることが目的となったスキルや技能は、自分自身の元を離れ、「他人のための価値」へと変貌します。これらは言わば表層的な価値であり、わかりやすく表面化さえしてくれますが、豊かさを生む源泉にはなり得ません。そうではなくて、他人に評価されない価値にこそ豊かさが眠っており、その潜在的な価値がすなわち自身の内包する本当の価値であると思うのです。

誰のためでもない、誰に評価されるわけでもない趣味や活動こそが、人生を豊かにし、その人本来の価値を養うのではないでしょうか。

おわりに

時間は有限だから有意義に使わないといけない」というのは、最も豊かさからかけ離れた言葉のように感じます。生産的な娯楽を好んできたからこそ、消費的な娯楽にこそ潜在的な豊かさが備わっていると思うのです。のらりくらり、好きなときに好きなように。それが上手く生きるためのコツなのかな。

私が普段やっている趣味は、別に誰のためにやっているわけでもありません。就職のために楽器をやっているなんて変な話だし、電子工作も単純な興味から始めたものです。締切があるわけでもなければ、成果を出さないといけないわけでもない。そういった自由な活動が自分自身の価値を作り、思いがけないところで偶然誰かに見つけてもらえるのだと思っています。

息苦しい世の中ですが、まずは他人への執着から捨ててみてください。それでは次の記事でまたお会いしましょう。

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